絶対に彼女を離すまい
江戸川橋にある、と言うのかあったと思う小さなスナックに俺は歩みを進めていた。
今から十年前、俺は彼女に初めて会ったところだった。
そこは入口が小さな白い、木製のドアで出来ていて、それを開けると“コウベル”が鳴るようになっていた。
店内は適度な照度があり、明るすぎもせず、暗くもないと言う程よい環境になっていて、本も読めるようなところだった。
ある日、俺はキープボトルである“ダルマ”をロックで飲みながら、マスターの声を無視して大好きな本を読んでいた。客は俺一人だった。
コウベルが鳴り、一人の若い女性が入ってきた。
彼女はひとつ空けた、俺の隣の席に座りビールを注文して、旨そうに一杯目を飲みほした。
二杯目をグラスに注ぎ、これも旨そうに飲み干し、三杯目を注ぎながら「マスター、日本酒があったら温燗でください」と、若い女性の一人客としては凄いことを言いだしたので、俺は急に興味を持った。
本を読んでいるふりをしながら、彼女をちらちらと盗み見ると意外に可愛い感じの女性だった。色白でちょっと丸顔的な輪郭の中に、形は良いのだが全てに幼さを残すパーツが秩序よくレイアウトされているので、年齢がよく判らない人だった。
俺はキープボトルをからにし、追加を出してもらい、本を読みながら飲み続けていた。
彼女も日本酒をぐいぐいと飲み干し、すでに七本目に突入していた。強い、酒には本当に強いのだろう。
俺がロックを自分で作りながら、「マスター、こちらのお客さんがよければBGMをオールディーズに替えてもらってもいいですかね」と言うと、彼女は「勿論、私、デル シャノンとプレスリーが大好きです。それに、近い世代だとスタイリスティクスやテンプテーションズが大好きです。あ、それと古いところではライチェスブラザーズも大好きですよ。ライチェスのメンバーの一人って、F−1のミハエル シューマッハによく似てますよね。私、シューマッハの大ファンでもあるんです」と急に饒舌になった。
俺もF−1オタクであるし、オールディーズの大ファンで、彼女が言ったアーティストは全て俺も大好きだった。
俺たちの距離は急速に縮まり、オールディーズやF−1について語り合いだした。
男同士だって、こんなに話しの会う連中は、殆どいない。
急に彼女に対して親しみ以上のものを感じた俺は、「またここで、F−1やオールディーズの話しをしたいですね」と、それとなく付き合いをしてくれるように告白した。
「ええ、こちらこそ是非お願いします」と言われ、俺は気持ちの上で舞い上がったものだった。
その後、一年近く彼女とはいつものスナックで会い、いつもの話しを続けていくことができたのだが、ある日を境にばったりと姿を見かけなくなってしまった。
俺は格好をつけて、連絡先さえ訊くことをしていなかったのだ。
後悔したけれど、時はすでに俺たちの関係を断っていってしまったようだった。
俺もその後次第に、何となくスナックとは疎遠になり、ここ三年間は全く顔を出していないかったのだ。
でも、何か懐かしさを覚え、急にマスターの店に行くことにした。
やや、くたびれた感じのある白いドアを開けると、懐かしいコウベルの音共に、マスターの声が聞こえ、もう一人、女性の声が聞こえた。聞き覚えのある、しかも俺が求めていた声だった。俺は黙ってその女性の隣に座ると、マスターは黙ってダルマを出してくれ、ロックを作ってくれた。
その女性は、全く以前と変わらない様子でオールディーズとF−1の話しを始めた。
俺は、絶対に彼女を離すまいと思ったのだった。
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